せとうちのしおり#31
高見島は標高約300mの龍王山から四方に傾斜する地形をなしており、広い平坦地は港周辺の埋め立て地に限られます。ふもとに近い傾斜地に古い家が建ち並び、遠くから見ると島の斜面に家々が貼りついているかのようです。
その高見島が、春の終わりには島が白雪に覆われたようだったと言います。1970年ころまでの話です。雪に例えられたのは、白い花を咲かせる除虫菊です。
明治期(1868年~)になって日本に持ち込まれた除虫菊は、殺虫剤や蚊取り線香の原料となりました。戦前の1930年代には日本の生産量は世界1位となり、生産された除虫菊のほとんどは海外に輸出されていました。除虫菊は当時の日本の重要な輸出品目だったのです。
香川県も除虫菊の産地で、島しょ部や沿岸部を中心に栽培されていました。除虫菊は成長にさほど水を必要としないため、水が不足がちな島しょ部や沿岸部でも栽培できる作物でした。20世紀になってから香川県に持ち込まれ、戦時中の1943年(昭和18年)でも451町(約450ha)もの作付面積がありました。終戦直後、化学薬品を用いた殺虫剤の導入などにより作付面積は激減しますが、海外での需要を見越して栽培に力を入れたようです。その結果、香川県での作付面積は1970年(昭和45年)まで増加を続けました。
高見島での除虫菊栽培は大正期(1912年〜)には行われていました。高見島で除虫菊栽培を担っていたのは、主に女性でした。島の男性の多くが漁業などに従事していたためです。また、農繁期で学校が休みになった子どもたちも除虫菊栽培を手伝っていました。
女性たちは5月になると畑で白く開花した除虫菊の茎を刈ります。必要なのは花の部分だけですが、花をひとつずつ摘むのは効率的ではありません。そのため、茎ごと刈って束にして、米を脱穀する道具などを使って束になった花の部分だけを摘み取ります。
摘み取った花を、ふご(藁で編んだ容器)などに入れて集落の近くまで運びます。女性がふごを頭の上に載せて運ぶのは当時よく見られた方法で、斜面地での運搬に適していたのでしょう。広い場所にむしろを敷いてその上に花を広げて乾燥させます。容器を頭の上に載せて運ぶのは、しばらく経って花がカラカラに乾燥すると、その花を袋に入れて買い付けに来た業者に引き取ってもらいます。業者は高見島の北にある真鍋島(岡山県笠岡市)などから来ていました。
除虫菊の茎などは漁師にも重宝されました。海に浮かんだ船の底にはフジツボなどが付着し、船の進行に影響が出ることがあります。そのため、定期的に船の底を燻していたのですが、除虫菊の茎を使って燻すとフジツボなどが付着しにくかったと言います。
高見島は、1956年に多度津町に合併されるまで高見島村という自治体でした。高見島村は、1955年(昭和30年)前後に香川県内の自治体中、最大の収穫量を誇った年もあります。統計記録によれば、1955年の高見島村の生産量は3,800貫(約14t)です。同年の香川県の総生産量は33,975貫なので、高見島村は香川県全体の10%以上を生産していたことになります。高見島の面積が香川県の面積の約0.1%しかないことを考えると、その生産量の多さがわかります。
そうであれば、この頃の高見島では除虫菊の段々畑が相当に広がっていたことになります。今でこそ島の山頂近くは木々の葉で覆われていますが、当時は段々畑開墾のため伐採が行われ、各所から除虫菊越しに瀬戸内海を見渡すことができたといいます。
これほど盛んだった高見島での除虫菊栽培ですが、高見島を含めた仲多度郡の作付面積のピークは1965年(昭和30年)で、以後は年々減少していきます。この頃、高見島では花きの栽培も始まり、生産作物の転換が図られたようです。
瀬戸内国際芸術祭2013と2016では、除虫菊をテーマにした作品「除虫菊の家」(内田晴之+小川文子+田辺桂)が高見島で展開されました。屋内でのインスタレーションとともに、屋外では除虫菊が栽培されました。こうした作品を通して、高見島での除虫菊栽培が島の人には改めて思い出され、島外から訪れた人には新たに知られることとなりました。
実は今でも高見島で除虫菊を見ることができます。瀬戸内国際芸術祭2013を契機に結成された、高見島応援ボランティアサポーター「さざえ隊」を中心とした方たちが、島の数か所に除虫菊を植え、手入れをしています。そのうちのひとつが高見島の港からほど近いところにある花壇です。4〜5月に訪れると、島に降りてすぐに白い花に出会えるかもしれません。