せとうちのしおり#22

丸亀港(香川)からフェリーに乗って35分。
本島は、大小28の島々からなる塩飽諸島の中心の島。戦国時代から江戸時代にかけて、巧みな操船と造船の技術で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に自治を認められた塩飽水軍の本拠地として知られた島です。


廻船業で栄えた塩飽の島々では造船技術も発展。水夫とともに大勢の船大工も輩出しました。
江戸末期から昭和初期に建てられた100棟あまりの建物が残り、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「笠島地区」を、塩飽本島案内人の三宅邦夫(みやけくにお)さんと歩きながら、建築や塩飽大工(江戸末期から明治にかけ、瀬戸内沿岸を中心に腕のよさで活躍した塩飽出身の大工の総称)について、お話を伺いました。

「塩飽諸島は、秀吉、家康の朱印状により、1250石の領地を与えられた650人の水夫たちが治めてきました。
水夫たちは大名に対して、自分たちのことを「人名(にんみょう)」、人名の代表者を「年寄(としより)」と呼んでいました。
本島には笠島(かさしま)集落と泊(とまり)集落というふたつの大きな集落があります。泊に90人、笠島に78人の人名がいました」。

笠島集落を後ろにしながら、三宅さんが教えてくれました。
三宅さんは笠島のご出身です。


「ここは天然の良港だったんですね。そのため江戸時代は廻船業で栄えた。だから、集落には小さいなりに贅を尽くした立派な家が残っているんです。塩飽にはシーボルトも来ていて、瀬戸内海の小さな集落に、本瓦葺きの屋根が並んでいる。裕福な町に違いない、というような記述が残っています」。

江戸末期から昭和初期に建てられた100棟あまりの建物が残る重要伝統的建造物群保存地区「笠島地区」。

三宅さんがまず案内してくれたのは、地区の代表的な建造物で、内部を見学できる「笠島まち並保存センター 眞木邸(さなぎてい)」です。


「焼杉板になまこ壁。 内蔵と外蔵まである。眞木さんは年寄を勤めていたお宅です。長い木と短い木で構成されている格子は、“親子千本出格子窓(おやこせんぼんでごうしまど)”」。
このデザインの元は京都です。本島になぜ京風のデザインかというと、本島は幕府の直轄地だったので、文化的な繋がりも中央とあったんですね。私の子供の頃は言葉も少し違いました。上方言葉だったと思います」。

「塩飽の建物の特徴とも言えるのが、2階に造られた物入れ。“厨子二階建(つしにかいだて)”」と言います。物を保管するので、通風のため、虫籠窓(むしこまど)が設けられています。屋根は本瓦葺きです」。

「軒下にあるこの飾り。何かわかりますか。
柱から水平に突き出て。梁や棚などを支える三角形の補強材“持ち送り”です。
飾りが施されているでしょう。大工たちの遊び心が感じられます。
集落の中の建物には、いろいろな飾りの持ち送りがありますから、ぜひ探して見てください。
この持ち送りは、家にも船にも使われるものです。
塩飽大工は、江戸から明治にかけて活躍した大工集団です。
本島の3軒に1軒が大工、集落によっては3軒に2軒が大工でしたから、宮大工もいれば、船大工も、家大工も指物大工もいたでしょう。
情報や技術も教えあったんじゃないでしょうか」。

町並みから少し上がった場所にある尾上神社(おのえじんじゃ)。
大正5(1916)年に建てられたものです。「この神社は、明治30(1897)年に本島にできた“塩飽工業(補修)学校”の実習で造られました」と三宅さん。

大工の技術継承は、師弟制度が主でしたが、明治になり近代化が進むと、建設会社などが誕生。
大工の技術の継承に危機を感じた塩飽大工の棟梁たちが働きかけ、塩飽大工を育成する塩飽工業(補修)学校が設立されたそうです。

尾上神社を拝見して一番驚いたのは、社殿に施されていた彫刻です。
正面に彫られていたのは龍。今にも動き出しそうです。


「この神社を手がけたのは、今で言えば中学生です。塩飽大工の心意気や腕前、彼らの技をぜひ見てください。島には塩飽大工の一流と呼ばれる人たちが造った彫刻が他にもありますし、それに比べたらまだまだですが、素晴らしいでしょう。龍、獅子、獏と、どの彫刻も想像の生き物だけれど、写実的。彫り方は豪放磊落(ごうほうらいらく)。一木で丸彫りしている。これぞ、塩飽大工の特徴です」。

「あの屋根を見てください」。
三宅さんに促されて、空を見上げると、そこには少し丸まった屋根。

「神社仏閣の反りと反対で、丸まっているでしょう。“起り(むくり)”と言います。反りの反対で、起り。この屋根の形は、京都発祥の流行。本島の大工たちが、いち早く京都の流行を取り入れたんでしょうね」。

笠島地区のまち通りに面して建つ「吉田邸」は、塩飽大工によって、大正期に造られた住宅です。
まわりは江戸や明治の建物が多く、門を持たない町家造りですが、吉田邸は御影石の切石布積みの塀が印象的。中を見学することもできます。

江戸から明治時代にかけて、讃岐(香川県)、備前・備中(岡山県)を中心に数多くの建造物を手がけた塩飽大工。

「笠島地区の町並みに残る家々をはじめ、島内や香川県、岡山県にも塩飽大工が手がけた神社仏閣などが残っています」と三宅さん。
善通寺(香川)や備中国分寺(岡山)の五重塔も塩飽大工の手によるものだそうです。


幕府の直轄地であった時代、廻船業で栄えた時代など、さまざまな時代の名残が建築や資料、そして島の人々の記憶や語りという形で残る本島は、瀬戸内国際芸術祭2019の秋会期の会場です。
作品を見てまわりながら、塩飽大工たちの足跡をたどると、本島の思い出がさらに深くなりそうです。