せとうちのしおり#16

伊吹島の名前の由来をご存知ですか?
一説によると、島の海底から泡がぶくぶく吹き出ていたことに由来し、大地が息を吹いている「息吹きの島」が訛って「伊吹島」になったといわれています。


「伊吹島は海底火山の島なんです」
海上タクシーの運転手をしながら伊吹島研究会を代表する三好兼光(みよしかねみつ)さんに、島の歴史を教えてもらいました。


三好さんの船から島を眺めると、赤い溶岩や白い地層が見えました。溶岩の島に湧水はなく、たびたび水不足に悩まされたそうです。
「貯めた井戸で水を得ていたようですが、島内の7つの井戸が干上がってしまうことがあり、昭和40年代(1965~1974年)まで給水船が訪れていました。水が湧かない環境でもたくさんの人が暮らしていたのは、伊吹島がそれほどいい漁場だったからです」

伊吹島の歴史は、伊吹島民俗資料館を訪れるとよくわかります。
静かにたたずむ木造の建物は元伊吹幼稚園。瀬戸内国際芸術祭2013・2016で作品が展開された会場にもなっており、中庭には2000キロを旅するといわれる蝶・アサギマダラが小休止を楽しめるようにフジバカマが植えられています。
この伊吹島民俗資料館は入館料が無料で年中無休! 伊吹島を訪れた人はいつでも気軽に伊吹島の歴史に触れることができるのです。


木製の扉を開くと、教室や廊下に展示物がところせましと並んでいました。

手前の教室には、漁業関係の道具や資料が展示されています。
イリコで有名な伊吹島は、昔は鯛網が盛んだったといいます。
江戸時代の船を漕ぐ道具・櫓(ろ)や無線がない時代の指図棒、イリコを天日干ししていた頃の写真など数多くの展示を見ると、古くからこの島の暮らしの中心は漁業であったことがわかります。
現在は風が強いと漁は休みますが、昔の人は風と潮の流れを利用して船を操業していたので、いい風が吹いてくると逆に漁に出ていたようです。


手漕ぎの船でも2日あれば大阪まで行って帰って来ることができたようで、上方と商いをしたり出稼ぎに行ったりしていました。
そのために上方の文化が島の生活文化に色濃く反映され、今も伊吹島の言葉には昔の京都のアクセントが残っています。

隣の部屋には、農具や民俗行事に関する資料があります。
伊吹島は唯一平安・鎌倉時代のアクセントを残したといわれる貴重な島で、言語学者の金田一春彦先生も研究のため訪れていました。

三好さんに伊吹島の特徴的な言葉を聞いてみると、例えば「おまえ」というのが最高の敬意を示した呼び方で、今も使われているそうです。
伊吹島は島内婚が多かったので、昔の言葉が残っているのではないかと三好さんはいいます。

次は出部屋(でべや)に関する展示。
出部屋とは産婦が一か月の間、共同で暮らしていた場所です。

伊吹島では血を見ると不漁になると考えられていたので、産後の母親と赤ちゃんは家族と離れてここで暮らしていました。
6畳6間の畳敷きで、男性は立入禁止でした。


「私もここで1か月間育ちました」
と三好さん。出部屋の頃から共に育った同級生もいるそうです。

さらに、一番奥に位置する大広間には、三好さんが自宅の扉などを持ってきて自作したという出部屋の模型がありました。
実際に使われていたおくるみのほか、島のおばあさんに頼んでつくってもらったという着物や布おむつも展示されています。
出部屋では子どもの世話と縫い物だけをして過ごしたそうです。産後の体を休める意味合いも強かったのではないかと考えられています。
他の島にも出部屋があったそうですが、伊吹島では昭和5(1930)年に出部屋を助産院にしたこともあり、昭和40年代まで利用されていました。


女性たちは島内で結婚すると島から出る機会が少なかったので、結婚前の若いときに四国八十八カ所を歩いて回る娘遍路に出て見聞を広めたといいます。
娘遍路で共に歩いた仲間と出部屋で一緒になることも多く、出部屋は交流の場、子育てについて話したり教わったりする場であったとか。
このように女性同士の仲が深まることで、島全体で子育てをするような環境だったといいます。

そして、伊吹島の秋祭りでは3台の太鼓台が島を練り歩くのですが、大広間には過去に使用されていた初代太鼓台の一部があります。
太鼓台は江戸時代に大阪で直接買い付け、船で伊吹島に運んできました。


「これは布団の部分で和紙を張っているのがわかる」
と三好さんが説明してくれました。


鳳凰や竜が刺繍されている赤い布は西陣織で、明治時代の2代目太鼓台のもの。高級な西陣織が使われるほど、豪華な太鼓台だったようです。
伊吹島が経済的にも豊かだった証拠です。

太鼓台からは数年前に古文書が見つかり、三越の前身「越後屋」など、どこで太鼓台を買ったという記録が記されていたそうです。
太鼓台からも、上方との交流が深かったことがわかります。

隣には目を引く大きな絵がありました。
伊吹八幡神社に奉納されていた絵馬で、クジラが捕れたのが珍しくて明治中期に奉納されたものといいます。
潮を吹くクジラを鯛縛り網の船が囲み、人々が櫓(ろ)を漕いでいるのが見て取れます。


戦後急激に子どもが増えたので、神社の絵馬堂を教室に使ったところ、小学生が絵馬を怖がったので大半は燃やしてしまったといいます。
展示されているのは残っていた数枚のうちの貴重な一枚。


「島の人が、『自分の先祖が奉納したものだから』と、持ち帰って保管していたんです」と三好さん。
聞けば、資料館の展示物の多くは、伊吹島の解体される家や納屋などから見つかったものだそうです。


「ここにあるのは、伊吹島出身で小学校の教員を務めた久保先生が個人的に譲り受け、収集していたもの。それに島の人が協力してできた資料館なんです」
今まで展示品を把握できていなかったそうですが、昨年香川大学の協力のもと、やっとデータベース化できたそうです。

資料館と聞くとむずかしそうなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、ここは島の人たちや島に関わる人が自分たちで作りあげた資料館。
伊吹島を大切に想う人々の温かい気持ちが伝わってきて、訪れる人にも伊吹島に愛着を持たせてくれるような親しみやすい空間です。

伊吹島は来年、瀬戸内国際芸術祭2019の秋会期に参加します。


芸術祭で伊吹島を訪れたら、伊吹島民俗資料館に立ち寄ったり、島のおとうさんやおかあさんに話を聞いたりしてみてください。

その地域のことを知り、さらにアートを通してその地域を深く体験すること。
これこそ、瀬戸内国際芸術祭の醍醐味ではないでしょうか。