会場

瀬戸内海

瀬戸内海は、日本列島の本州、四国、九州の大きな三つの島に囲まれた、東西約450km、南北約15〜55kmにわたる日本最大の内海で、沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれます。湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている場所です。シーボルトやトーマス・クックなど幕末から明治にかけて欧米から来日した人々がその美しさを絶賛し、記録にとどめました。1934年には、香川県、岡山県、広島県にまたがる備讃瀬戸を中心とする地域が、日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」として指定されています。

また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきました。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈でした。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成していきました。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られています。

一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こしました。瀬戸内海は、負の側面も含め、歴史と文化が蓄積している場所なのです。

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直 島

大小27の島々からなる直島町の中心である直島は、香川県高松市の北約13km、岡山県玉野市の南約3kmに位置する、面積8平方km、人口が約3,100人の島です。平安時代、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国へ流された際、この島に立ち寄り、島民の純朴なこと、素直なことに感動し「直島」と命名したとも伝えられています。

直島近海は古くから海上交通の要衝であり、戦国期には直島を治めた高原氏が水軍を束ねて活躍し、江戸時代の初めには多くの人が廻船業に携わっていました。幕末から明治時代にかけては芝居が盛んに行われ、現在でも女性だけの人形浄瑠璃「直島女文楽」がその伝統を受け継いでいます。

地場産業としてハマチや海苔の養殖漁業が行われているほか、島の北部では大正時代から銅をはじめとする貴金属の製錬を行っており、島の経済を支えてきました。近年は、島の南部に美術館が整備されるなど、現代アートの聖地として世界的にも知られるようになっています。

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豊 島

直島と小豆島の中間に位置する、面積14.5平方km、周囲18.0km人口が約800人の島です。島の最南端には西日本最古の貝塚があり、約9千年前には既に人が住んでいたことが分かっています。瀬戸内海交易とともに栄え、近年までおよそ千年にわたり石材業が基幹産業でした。特産品の豊島石は、京都桂離宮の灯ろうに使われるなど西日本各地に広がっています。

島の中央にそびえる檀山には豊かな森が広がり、豊富な湧き水が棚田を潤しています。かつては自給した上で島外に出荷するほど稲作が盛んでした。また酪農が栄えたことから「ミルクの島」としても知られ、戦後まもなく先進的な福祉施設ができたことから「福祉の島」とも呼ばれています。

島の西端で起こった産業廃棄物不法投棄事件はこれまであまり重要視されてこなかった廃棄物の問題を国の最優先の環境問題にクローズアップさせ、廃棄物政策の見直しを行うきっかけとなりました。

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女木島

高松の沖合、約4kmに位置する、面積2.68平方km、周囲7.8km、人口が約140人の島です。女木港周辺には、防風防潮用に「オオテ」と呼ばれる高さ3、4メートルにもなる石垣が築かれ、独特の景観を作り出しています。

約80年前、昔話「桃太郎」に登場する鬼ヶ島と女木島を結びつけた話が創作され、その後、鷲ヶ峰山頂にある洞窟が鬼のすみかとして観光地化されました。その鷲ヶ峰山頂にある展望台では360度瀬戸内海を見渡すことができ、春には島をピンクに染める数千本の桜並木とともに景色を楽しむことができます。対岸の高松や屋島を望む浜辺は水質も良く、環境省の「快水浴場百選」に選定され、夏には海水浴のほかキャンプや釣りを楽しむ人々が大勢訪れます。

夏には、2年ごとに住吉神社大祭りが行われます。太鼓を叩く子どもたちを乗せ、大勢の男性に担がれた太鼓台が海の中に入り、海の男の勇敢さと勇猛さを顕示する島内最大の祭りです。

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男木島

女木島の北1kmに位置する面積1.34平方km、周囲5.0km、人口が約160人の島です。平地がほとんどないため、斜面に密集して民家が建ち並び、その間を縫うように細い坂道が通っています。地形上の制約で水田を営むことは難しく、戦後間もないころまでは、島外に牛を貸し出し、その対価として米を手に入れていました。

男木港から見える高台にある豊玉姫神社は安産の神様として知られ、島外からも多くの人が安産祈願に訪れていました。島の北端に建つ男木島灯台は、花崗岩を用いた美しいつくりで、日本の灯台50選に選ばれており、映画ロケ地としても全国的に有名です。また、灯台職員の官舎跡が灯台の歴史を伝える資料館として残っています。2月には灯台へと続く遊歩道に約千万本のニホンスイセンが花を咲かせます。

2014年には芸術祭をきっかけとして男木島へのUターンを決めたご家族らの尽力もあり、休校していた小・中学校が再開しました。学校が戻った島は子どもたちの声が響く島となりました。その後も、男木島に魅力を感じて移り住む人は絶えず、飲食店、美容室、図書館などを運営しながら島に根を張っています。新しい風も受け入れる男木の島民性により、新たなコミュニティが形成されています。

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小豆島

面積153.26平方km、周囲140.1kmと瀬戸内海では淡路島に次いで2番目に大きな島です。土庄(とのしょう)町、小豆島町の2つの町からなり、約26,000人が暮らしています。古くは「あずきしま」とよばれ、「古事記」には日本の大八洲につづいて10番目につくられた島として登場します。

約110年前に日本で初めてオリーブ栽培に成功したことから「オリーブの島」としても知られ、他にも400年以上続く醤油、素麺の生産、そこから派生した佃煮やごま油など特産品は多岐にわたります。

海岸線からは瀬戸内海の代名詞とも言える多島美を楽しむことができる一方、瀬戸内海最高峰を有するなど山間部は標高が高く、海と山とで趣の異なる美しい景観が望めます。

寒霞渓やエンジェルロードに代表されるような観光地として知られるほか、地域の伝統行事や風習が色濃く残る、自然と文化が調和した魅力的な島です。

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大 島

高松港の北東約8kmに浮かぶ、面積が0.62平方km、周囲7.2kmの小さな島です。もともと2つの島だったものが砂洲でつながり、ひとつの島になっています。古くは源平合戦の舞台にもなり、西海岸一帯には「屋島の戦い」に敗れた平家方の勇者を葬ったところに植えられたと伝えられる老松「墓標の松」に覆われた松林が、今も残っています。

1909年にハンセン病の療養所が設立され、1946年に国立療養所大島青松園と改称されました。長らくハンセン病に対する社会的偏見と差別から、国の誤った政策により入所者が強制隔離されてきました。1996年に「らい予防法」が廃止され、2008年には「ハンセン病問題基本法」が成立し、現在は園内で、入所者の日常生活の介助・療養生活の支援と、ハンセン病を正しく理解するための啓発活動が行われています。

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犬 島

岡山県岡山市の宝伝港から南に約2.5km、定期船で約10分の場所に位置しています。面積は0.54平方Km、周囲3.6km、人口約50人。6つの島からなる犬島諸島のうち唯一の有人島です。諸島のうちのひとつ、犬ノ島にはうずくまった犬の形に似た巨石「犬石様」があり、犬島の名の由来となっています。良質な花崗岩(犬島みかげ)の産出で知られ、古くは江戸城、大坂城、岡山城の石垣、明治以降では大阪港礎石の切り出し場となるなど、全国各地で犬島の石が珍重されてきました。

犬島製錬所が開設(1909)、営業されていた最盛期10年の間には住民は3000人を越えましたが、製錬所閉鎖と採石業の衰退により現在の人口はその50分の1以下となっています。島内には海水浴場、「自然の家」などがあり、四季を通して島独自の自然に親しむことができます。

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沙弥島

かつては、坂出港の沖合約4kmに浮かぶ、面積0.28平方km、周囲約2.0kmの小さな島でしたが、昭和42年、番の州埋立事業により陸続きとなりました。

島の歴史は古く、縄文土器やサヌカイト製石器、製塩土器などが出土しています。また、島の南側にある権現山の西端には、古墳時代中期頃の方墳千人塚があり、その付近には、9基にのぼる古墳が確認されています。さらに、690年頃、万葉の代表的歌人である柿本人麻呂が詠んだ歌の中に、狭岑島(さみねのしま)が登場し、これが現在の沙弥島であることから、万葉集ゆかりの島とも言われています。また、当時の土木技術の粋を集め昭和63年に完成した瀬戸大橋を間近に望み、万葉時代から変わらない美しい多島美と瀬戸大橋が楽しめる遊歩道も整備されています。

このほか,瀬戸内海に沈みゆく夕日が美しい西ノ浜は、環境省選定の「快水浴場百選」にも選ばれており、夏は海水浴を楽しむ多くの方々でにぎわいます。

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本 島

塩飽諸島の中心で、かつては塩飽島とも称された本島は、面積6.74平方km、周囲16.4kmの島。人口は約330人で、漁業が中心です。本島を中心とする塩飽諸島には、優れた操船・造船技術を有する塩飽水軍が名を馳せ、その技術の高さから、船方たちは時の権力者から高い評価を得ていました。幕末、日本人により初めて太平洋を横断した咸臨丸の乗組員として活躍した大半は、塩飽の船方(ふなかた)でした。島内には、信長や秀吉、家康からの朱印状や古文書を蔵するかつての塩飽船方衆の政所「塩飽勤番所」をはじめ、かつての繁栄を偲ばせる古い寺社、江戸時代から戦前にかけて建てられた家屋が建ち並ぶ笠島重要伝統的建造物群保存地区等が保存され、当時の様子を今に伝えています。

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高見島

多度津町の北西の沖合約7.5kmに浮かぶ高見島は、面積2.35平方km、周囲6.4kmの南北に細長い円錐形の島です。標高297mの龍王山を中心に南側には港を中心とした浜地区、山手側には浦地区があります。島の北側には板持地区がありましたが、現在は人が住んでいません。島の西側は険しい崖になっており、集落はありません。

浦地区には、傾斜25度から30度の斜面に家々が階段状に建ち並び、石垣が自然石の乱れ積みでできているなど、島独特のたたずまいが残っています。これらの多くは江戸時代に建築されており、塩飽大工として活躍した島民の技術を物語るものとなっています。また、浜地区・浦地区には珍しい両墓制の墓が残っています。

毎年9月に開催される高見・佐柳合同大運動会は島の住民をはじめ、隣の佐柳島や多度津町内などから多くの人が参加し、普段静かな島が大いに盛り上がります。

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粟 島

かつて、北前船の寄港地としても栄えていた粟島は、瀬戸内海のほぼ中央、香川県西部に位置する荘内半島の沖合に浮かぶ、面積3.68平方km、周囲16.0km、人口約300人の島です。3つの島が砂州でつながり、船乗りの島にふさわしくスクリューの形をしたこの島は、須田港からわずか15分という近距離にありながら、ゆったりと時間が流れる非日常の離島空間を味わうことができます。

粟島は夜になると、夜空にはきらめく星空、遠くには行き交う船の光や街灯、海辺には夜空に輝く星のように幻想的な青い光を放つ「海ほたる」を観察することができます。観察シーズンは5月下旬から10月上旬で、特に秋口が見ごろとなります。また、明治30年に日本最古の海員学校として設置され昭和62年3月に廃校となるまで90余年もの間、海の男たちを輩出してきた国立海員学校は、島の歴史と大きく関わっており、現在、その跡地は粟島海洋記念公園として整備され、島のシンボルとなっています。

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伊吹島

観音寺港の西方約10kmに位置する面積1.05平方km、周囲5.4km、人口約600人の島です。安山岩、花崗岩などからなる台状の島で、島の周囲は急傾斜の崖となっています。台地には平地が開けており、住宅は島の南から北にかけての鞍部に集中しています。

伊吹島は、漁業が盛んな島で、パッチ網漁、小型底曳き網漁、定置網漁などが行われています。特に、パッチ網漁で捕るカタクチイワシは、島で煮干イワシ(イリコ)に加工されており、「伊吹いりこ」としてブランド化されています。

伊吹島の言葉は、独特の特徴を持ち、古語に属する方言や特殊な敬語が多く、日本で唯一平安時代のアクセントが残っています。言語学者金田一春彦氏が、島の言葉を研究するため、伊吹島に二度訪れ、その際に詠んだ歌も残っています。話し言葉は、素朴でやや荒っぽく聞こえるのが特徴です。

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高松港周辺

高松港のある高松市は、四国の北東部、香川県のほぼ中心に位置する人口約420,000人の都市です。現在の高松港周辺は、古くは「篦原(のはら)」と呼ばれ、1588年、豊臣秀吉の家臣であった生駒親正(いこま・ちかまさ)がこの地に居城を構え、地名を高松と改めました。高松城は、海に面し、堀に海水が引き込まれている全国的にも珍しい水城(みずしろ)です。1642年松平頼重(水戸光圀の兄)が高松藩主となり、「讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上」とうたわれたように高松は江戸時代を通じて城下町として発展しました。明治時代以降、高松港は数度にわたる大規模な港湾の改修と鉄道の敷設を経て「四国の玄関」となります。

次々と船が発着する高松港は、入港船舶隻数が全国でも上位の屈指の旅客港で、島々へと渡る母港、城下町から発展した現代の市街地と瀬戸内海の結節点として、重要な役割を果たしています。

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宇野港周辺

宇野港のある玉野市は、岡山県の南端に位置する人口約60,000人の港町です。東西44kmに及ぶ海岸線には屈曲した入江が多く、太古より舟航の便に恵まれ、天然の良港として栄えてきました。

造船業を中心に製錬業、製塩業などを基幹産業として発展した「ものづくりのまち」で、街並みは「造船のまち」の面影を映し出しています。一方で農業、漁業も盛んで、紫芋や茄子といった野菜に加え、梨や蜜柑、海苔、穴子などが特産です。

1910年、宇野線(岡山-宇野)の開通と同時に宇野と高松(香川県)を結ぶ宇高連絡船が就航。東京から宇野を結ぶブルートレイン「瀬戸」の発着点にもなり、宇野港は市の中心として、また本州と四国を結ぶ海上交通の要衝として発展しました。

連絡船が廃止された現在も、宇野と高松、瀬戸内海の島々(直島・豊島・小豆島)を結ぶ航路があり、島々への玄関口として多くの人でにぎわっています。

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コラム「せとうちのしおり」〜瀬戸内国際芸術祭の島と港〜

【てくてく島さんぽ】迷路のような集落を歩く
【話が聞きたくて】島で暮らすように過ごす
【島の写真館】初夏の小豆島で出会う、地上の星空

会場である島々の歴史や文化などにスポットを当て、その土地に生きる人々が育み築いてきた島の暮らしのようすを、そこに住む人の言葉と日常を切り取った写真とともにお伝えします。(瀬戸内国際芸術祭2019制作)

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