せとうちのしおり♯28

 

農作業に使われていたと思われる牛(香川県高松市春日川河口付近 撮影時期不明)高松市歴史資料館蔵

2010年からはじまった瀬戸内国際芸術祭。その年、男木島に設置されていた作品「音の風景」(松本秋則)は、元は牛小屋(牛舎)として使われていた建物です。そのつもりで建物の中を見てみると、たしかに牛小屋の仕切りの痕跡が残っていました。
現在、男木島を歩いても牛を見かけることはありませんが、かつては島の各家庭で牛が飼われていたことがあります。

Photo:Osamu Nakamura

10 年近く前、男木島でお話をうかがいました。子どもの頃、毎日、牛の世話をしていたという方たちです。男木島の子どもたちは、朝、家にいる牛を広い場所に連れて行きます。その場所は島の北側にあり、南側にある集落から反時計回りに道(現在の男木島回遊道)を歩いて20分以上かかります。普通に歩いてもそれだけかかる道。牛を連れて歩くとなると、それ以上の時間がかかったことでしょう。
牛を放した後は、子どもたちが刈った草を餌として牛に与えていました。決して広くはない男木島では、牛が食べる草は足りないくらいでした。牛は夕方になると子どもたちに追われてそれぞれの家の牛小屋に戻ります。
家では子どもたちがかぼちゃを切り、さらに芋や麦を混ぜて炊き、味噌を加えたものを牛に食べさせていたそうです。

男木島では「牛飼い」と言って多くの家で牛を飼っていました。それぞれの家に牛舎があり、牛舎には牛の寝床として天日干しにしたモバ(藻)が敷き詰められていました。モバは定期的に取り替えられ、牛舎で使用された後は畑の肥料になりました。牛舎のモバを取り替えるのも子どもたちの仕事でした。

牛は春秋の農繁期にそれぞれ半月程度、男木島から外に出されました。その時期になると牛船(うしぶね)と呼ばれる専用の船が牛を迎えに来て、牛はその船で高松方面へと運ばれ、その先で農作業に使われました。牛の働き場所は、志度(さぬき市)などでした。
農作業の期間が終わると牛は島に戻って来ますが、帰って来た時には痩せこけた姿になっていたそうですから、貸し先では一生懸命働いてきたのでしょう。そうした重労働を覚えているためか、牛船を目にして乗船を嫌がる牛もいたそうです。
牛が戻ってくる船には、牛の貸し賃として春には麦、秋には米が載せられていました。

香川県では農作業のために別の地域から牛を借りてくる、借耕牛(かりこうし)と呼ばれる風習がありました。香川県の平野部には水田や畑が多く、農作業に多く牛が必要でしたが、飼料の不足などから各農家でそれだけの牛を飼うのは困難でした。さらに、稲と麦との二毛作が多く、それ以外の地域とは田植えの時期がずれており、稲だけを育てる地域とは牛を使う期間が異なっていました。こうした点が、借耕牛が広まった背景にあります。

男木島だけではなく、お隣の女木島でも、香川県の平野部の農家に貸し出すために牛を飼っていました。島の地勢的に平地が少なく、大きなため池を築くことができない男木島で水田を営むのは非常に困難です。1年のうちの限られた時期に牛を貸し出すことで、島での生産がむずかしい米や麦を入手することができたのです。そしてそれを支えていたのは、島の子どもたちでした。

男木島を訪れると、家々の間を縫う狭く急な坂道や、豊玉姫神社の参道から眺める斜面地の集落景観に惹かれる人も多いようです。男木島を訪れることがあれば、ぜひ、想像してみてください。豊玉姫神社の境内から見える集落のなかを、また急な坂道や細道を牛と子どもたちが歩いている姿を。今は見ることができない男木島の暮らしの風景を探してみませんか。