せとうちのしおり♯10

瀬戸内国際芸術祭の会場のひとつであり、島々への拠点港のひとつでもある宇野港(岡山県玉野市)は、本州と四国を結ぶ海の道として重要な役割を果たしてきました。

始まりは明治43(1910)年、宇野ー岡山駅を通る国鉄(現在のJR)宇野線が開通したと同時に、本州と四国を結ぶ宇高航路が開航。
以来、四国から本州へ、本州から四国へと渡るには、宇高航路は欠かせない存在となりました。


国鉄が運営する宇高連絡船のほか、民間航路も乗り入れたため、ピーク時にはひっきりなしに船が往来していたそうです。
その便数はなんと1日に最大140便以上。
当時は、港に行けばほとんど待たずに乗れたことから、悪天候などの運休時以外は陸の道と同じように利用されていたようです。

平成6(1994)年に現在の駅舎に移転するまで、宇野駅は現在よりも港に近い場所にあり、駅構内に敷かれた貨物列車などを運ぶための機回し線、引込み線などレールが数十本も張り巡らされ、それらは港まで延びていました。


その頃の様子を写真に収めていた「たまの観光ボランティアガイドつつじの会」の森寺克好(もりてら かつよし)さんに、当時のお話を聞きました。

現在の宇野駅舎から港に向かって数百メートルのところにある舗装された道路の脇に立った森寺さん。
そこで、当時撮影した宇野駅のレールで埋め尽くされた写真を見せてくれました。


「背景の山は今も昔も同じですから、目の前の風景と見比べるとわかりやすいでしょう。今、私たちが立っているところにもレールが敷かれていたということなんですよ」と森寺さん。


港まで延びたレールに乗って、貨物がそのまま船へと運ばれることもあったそうです。
そのため、船によっては貨物を積載する場所にレールが敷かれていたこともありました。

当時、森寺さんが撮影した写真を見ると、現在の船では乗用車を積載する場所にしっかりと茶色のレールが伸びていました。

宇高航路は、貨物だけでなく、たくさんの人にとって重要な海の道でもありました。


「夕方ごろに宇野駅に列車が到着すると、いい席に座ろうと駅舎からどっと走り出て船に乗り込んでいく様子は日常の風景でした」と森寺さんは当時を思い出します。

宇高航路のおかげで、海をはさんでお隣の香川県高松市から岡山県に働きに出る人も多かったそうです。
また、玉野市には大きな造船所があり、そこには高松市内から宇高連絡船などで通勤していた人も多くいました。

宇野港前に広がる商店街は、悪天候で船が運休になり帰れなくなった人のための宿や、若い労働者が楽しめるダンスホール、居酒屋などが並び、繁栄していたそうです。


宇高航路と宇野の町が一番活気づいていたのは、昭和30〜50年代頃のこと。
船の女性客室乗務員は、宇野で暮らす女性たちにとって飛行機のスチュワーデスと同じくらい憧れの職業でした。

その頃、客室乗務員として活躍した女性たちは現在60〜70代ぐらいで、今でもその多くは宇野の町で元気に暮らしているそうです。


森寺さん自身も、幼い頃にお母さんに連れられて宇高連絡船に乗って高松へ行ったことがあるそうです。
その日、森寺さんのお母さんは高松で、持参した衣類と米や小麦を物々交換し、大量の食料を持って宇野に戻ったそうです。


森寺さんが社会人になった頃、宇高連絡船は交通手段だけでなく娯楽の場にもなりました。
夏の納涼フェリーとして利用できるようになったのです。
船内はお祭り会場のように装飾され、生演奏を聞きながらお酒や食べ物を楽しめる納涼フェリーは「まさに海上ビアガーデンでしたね」と森寺さんは目を細めました。


そんな宇野航路は、昭和63(1988)年に瀬戸大橋が開通し、JR瀬戸大橋線が開通したのと同時にその使命を終えました。
民間航路は便数を減らしながらも運航を続け、現在は1社のみとなりましたが、今でも貴重な交通路として、人々に親しまれています。

現在、玉野市では連絡船の町としての宇野港の役割を再確認し、それを守るための活動も行われています。
それが「宇野港『連絡船の町プロジェクト』」です。


このプロジェクトは、連絡船のアーカイブをつくり、世界各地の海運の歴史を明らかにすることで、改めて「連絡船の町」として宇野港を特徴づけるため、フォトコンテストや調査研究などを行っています。


高松港とならぶ瀬戸内国際芸術祭2019のマザーポートのひとつ「宇野港」。
時代とともにその姿を変えながらも、その「連絡船の町」としての歴史とともに、今日も人々の日常を運んでいます。


宇野港「連絡船の町プロジェクト」公式ウェブサイト

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http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/