せとうちのしおり#34

かつては北前船の寄港地として栄え、日本初と言われる海員学校があったことでも知られる粟島。
珍しいスクリューのような形は、小さな3つの島が潮流によってできた砂州で結び合わされてできたと言われています。
外洋航路の船員を多く輩出し、島の方曰く、「誰かかれか粟島の家には必ずひとりは船員さんがいた」という粟島で、日本最古の海員学校の卒業生のみなさんや、外洋航路の船員として活躍した島の方に、粟島の話や船員時代の思い出をうかがいました。

粟島に海員養成学校が誕生したのは、1897(明治30)年。島の多くの人たちは、北前船の乗組員として生計を立てていましたが、明治のはじめの頃から西洋型の帆船や蒸気船が主流になりはじめ、船の操縦には国家試験が必要となりました。

そこで1897(明治30)年、地元の村会議員であり海運事業家であった中野寅三郎さんが私財と敷地を提供して、粟島村立粟島航海学校を創設。1906(明治39)年に、香川県立粟島航海学校となり、その後、移管や改称を経て、1987(昭和62)年に廃校になるまで、多くの外洋航路の船員さんたちを輩出しました。


現在、粟島海洋記念館として、当時の船舶機器や模型、海員学校時代の授業や行事の写真など、多くの資料が展示されている建物は、1920(大正9)に建築された木造2階建ての校舎跡。庭には古い碇や艦鐘も配置されています。

粟島の海員学校や船員時代のお話を聞かせてくださったのは、海友会(粟島海員学校OB会)のみなさん。
昭和20年(1945)代から昭和30年(1955)代に海員学校を卒業された方が中心で、年齢は70代から80代。外洋航路の船員として、長く活躍されていた方たちです。
そんな皆さんのお話は、「当時は兄弟が多かったから、そのうちひとりは学校にいっとったな」。「横向いて歩きよって、ドンッとぶつかったら、船乗りやった」。船員の島、粟島ならではのエピソードからスタートしました。


「わたしらが若い頃は船にでも乗らないと食べていけん時代やったからな。船乗りになる者は多かった。陸(おか)におったら、自分らで食べないかんやろ。船に乗ったら食べさしてくれるから」と話してくれたのは山北友好さん(88歳)。中学を卒業後、すぐに船に乗り、コーター・マスター(舵取り)として勤務。世界48カ国をめぐったそうです。

「私の同期は甲板部に20名、機関部に20名。甲板部は中学を卒業してすぐ入学できたけど、機関部は1歳年上じゃないと入れなかった」と教えてくれたのは、海友会会長を務める田尾啓司さん(75歳)。中学を卒業後、海員学校甲板部に入学。運航のスタンバイや結索、船体の錆び打ちなど、船乗りの基礎から学んだそうです。

学校の同級生は、船会社によって運ぶ荷物も違うし、それによって航路も違うので、卒業したら同じ船に乗ることはほぼなかったそうです。
山北幸男さん(77歳)が話してくれたのは、航海に出た時の話。「航路によって期間も違うけれど、一度船に乗ったら、半年帰ってこないのは当たり前。海に落ち込んだこともあるよ。長女が無事生まれたことは、電報で知ったしね」。

檜垣忠良さん(81歳)は、「一度航海に出るとなかなか帰ることができないから、その分、家のことは女性たちが男の代わりみたいなことをしなければならなかった。大変だったろうね。お米は配給制だったので、船に乗るときは配給手帳を持って乗ったよ」と、当時のことを教えてくれました。

時には船の上でお正月を迎えることもあったと話してくれたのは、中西敏文さん(76歳)。「船の上で餅つきをしたり、大きな煙突にしめ縄を巻いたり、マストの上に松飾りをしたりしましたよ。世界何カ国に行ったか聞かれてもわからんぐらい行ってるから。港にしたらもっと多くなるから数えられんわね」。


「当時の思い出は、いいことばかりです」と話してくれたのは、池田正平さん(86歳)。海員学校を昭和25(1950)年に卒業。他のみなさんと同じように、学校卒業後は海運会社に就職。世界中を訪れたそうです。

松岡常和さん(73歳)は、海員学校卒業を間近にした頃の思い出を話してくれました。「3月末になると、学校から船会社の面接に行くように言われるんです。16歳で神戸までひとりで行ったんだけど、迷ってね。親切な人に教えてもらった。当時は大きな船会社が十数社ありましたからね。40トン、全長360メートルのタンカーに乗っていました。外国人の乗組員とのコミュニケーションは英語かスペイン語でしたね」。

「ひとりっ子だったけれど船に乗った。当時はみんな出稼ぎせんかったら食べていけんかったから。はじめは東南アジア方面からラワン材の原木を丸太のまま運んでた。フィリピンはよく行ったよ。石炭積んだり、鉄鉱石運んだりもしたね。就職したけど会社に出勤したことはない。乗る船が決まったら、その船が就航する港に集合。船乗りはそういうもんよ」と教えてくれたのは、松田忠昭さん(79歳)。

今は携帯電話がありますが、昔は電報で、「◯月◯日、◯◯丸に乗船。◯◯港集合」と連絡があったそうです。松田さんはドイツの港から乗ったこともあったとか。

「70万トンある石炭や鉄鉱石を、飛行機で運ぶことはできんやろ。海運業にしかできん」と松田さん。田尾さんは27万トン、全長350メートルの大型タンカーに乗っていたこともあるそうです。
それぐらい大きな船になると、「大きな山が動いているようなもの」と中西さんが教えてくれました。その広さは甲板で野球やゴルフの練習ができるほどだったそうです。

他にも、海友会のみなさんはいろいろな話を聞かせてくれました。
粟島の郵便局には横文字の手紙がたくさん届いていたこと。麦飯ばかりの時代に、白飯が食べられたこと。台風がきたら陸よりは船の方が避けられるから安全だったというお話も。日本人だけの船もあれば、多国籍の人たちが乗船する混乗船で働くこともあったそうです。そういう時も、船乗りが使う言葉は同じだから、困った記憶はそんなになかったのだとか。

逆巻く怒涛もなんのその。世界の海をまたにかけて活躍していた粟島出身の船乗りさんたちは、船長に「階位なき外交官だと思え」とよく言われていたそうです。つっかけやスリッパで外国の港に上陸するなと。小さな港でも、身だしなみに気をつけ、日本人としてのプライドを持てと。


粟島を訪ねたら、ぜひ粟島海洋記念館へ。1階の資料展示室には、当時の様子を知ることができる写真や貴重な品が保存されています。日本の海運業を支えてきた粟島の人たちの足跡を訪ねてみてください。


写真提供:海友会(粟島海員学校OB会)、「島のじいちゃんが行った世界の港町」写真展(主催:津田千枝、香川高等専門学校詫間キャンパス 藤井宏行、藤井研究室学生)