せとうちのしおり #12


瀬戸内国際芸術祭を訪れた人の中には、不思議に思った人もいたかもしれません。会場のひとつ「沙弥島(しゃみじま)」は、島じゃないのに、島と呼ばれていると。

現在は陸続きになっている沙弥島は、約半世紀前までは瀬戸内海に浮かぶ島でした。
陸続きの沙弥島が、なぜ瀬戸内国際芸術祭の舞台のひとつに選ばれたのか。そして、昔の沙弥島はどんなところだったのか。
坂出市産業課にぎわい室の谷本祐司(たにもとゆうじ)さんにお話をうかがいました。


「与島地区5島をご存知ですか。瀬戸大橋でつながっている櫃石島(ひついしじま)、岩黒島(いわくろじま)、与島(よしま)の3島と、瀬居島(せいじま)、沙弥島(しゃみじま)のことです。
昭和28(1953)年に坂出市と合併する前は、与島村と呼ばれていました。

(昭和28年頃。坂出港赤灯台と瀬居島)

坂出市が芸術祭の舞台のひとつに決定したとき、人が住んでいる島ということで、まず与島地区5島が選ばれました。
そして、瀬戸内国際芸術祭のテーマである「海の復権」から、ぜひ瀬戸大橋が架かる瀬戸内海の景色を見てもらおうということになり、瀬戸大橋記念館や東山魁夷せとうち美術館があって、万葉の歌人 柿本人麻呂も歌を詠んだ沙弥島が会場に選ばれました」。

(昭和29年頃。手前右に浮かぶのが瀬居島。左側手前が沙弥島。その間、奥に見える大きな島が与島。)

沙弥島が陸続きになったのは、番の州(沙弥島と瀬居島の周辺に広がっていた浅瀬)を埋め立てて、臨海工業団地を造成しようとはじまった埋め立て事業でした。


「造成は1965年(昭和40 年)から1972年(昭和47年)にかけて行われました。沙弥島は1967年(昭和42年)12月に、瀬居島は1968年(昭和43年)9月にそれぞれ陸続きになりました。
開通30周年を迎えた瀬戸大橋架橋事業と混同されることが多いのですが、番の州の埋め立ては今から50年前の公共工事です」。

(昭和29年頃の沙弥島。大きな塩田が見える。)

坂出市は日本一の製塩地としても知られていて、四国側はもちろん、沙弥島や与島にも塩田がありました。


谷本さんは島の70代の方から「小学生のとき、午前中は学校に行って、午後からは塩田の手伝いをした。塩田の手伝いをすると宿題は免除された」という話を聞いたことがあるそうです。
また、沙弥島から約4キロ離れた瀬居島は半農半漁の漁村でしたが、埋め立て工事で陸続きになった後、漁師として働いていた人の中には、それを機に陸にあがり、工業団地や坂出市内で働く人も増えたそうです。

(島民の交通手段。千当丸と渡海船)

坂出市役所には、小さな船の模型が展示されています。
定期連絡船「千当丸(せんとうまる)」です。


「千当丸は、大正13(1924)年から昭和63(1988)年まで就航。坂出市と下津井港(岡山県)間を1日4往復していました。
途中、櫃石島、岩黒島、与島、瀬居島に立ち寄り、島に暮らす人たちの足として活躍していましたが、瀬戸大橋の開通に伴い廃止されました。
また、千当丸のほかにも、沙弥島や瀬居島では、渡海船が主な交通手段で、夏になると船で海水浴に遊びに来る人も少なくなかったそうです」

「そらあみ」五十嵐靖晃

沙弥島がはじめて参加した瀬戸内国際芸術祭2013の作品に「そらあみ(五十嵐靖晃)」があります。
この作品は5島の人々にとって、忘れられない作品のひとつになったと谷本さんは言います。


「そらあみは、赤・白・黒・黄・水色の5色に染めた漁網を漁師さんや島の人と編んで、人や島の文化、歴史をつないでいくという作品。この作品が島の中はもちろん、5島をつないでくれたと思います」

「島の人が集まって網を編むんですけど、編みながら話をするんですよね。島の歴史だったり、子どもの頃の話だったり。共通の時間を過ごすことで、仲良くなるというか。

網を編んでくれたのは櫃石島や岩黒島、瀬居島は漁師さんが多かったですね。
与島はお母さんたちも参加してくれました。お菓子を食べたりお茶を飲んだりしながらわいわい楽しく編んでくれました。
櫃石島は若手の漁師さんがきて、一気に編む。
岩黒島は漁師のお父さんが網を編んで、お母さんたちが糸巻きを担当する。
沙弥島は皆さんすごくまじめで、もくもくと編む。時間がきてもまだやれるよって編んでくれましたね」


島の個性は編み方にもあらわれたそうです。

「道具を使うか、手で編むかで仕上がりが微妙に違うんです。
網の大きさにバラツキがでるんですけど、それもまたひとつの表情になっていたと思います。
『そらあみ』をつくる前は、5島に暮らす人たちが、一緒にひとつのことに取り組むということはあまりなかったと思います。
最終的には島ごとに制作した『そらあみ』を、5島の人が集まってみんなで1枚の網に仕上げました。
また、2016年は、週代わりで5島それぞれのお祭りやお祝いの席で食べる島の料理をつくってもらったのですが、お客さんはもちろん、島の人たちもほかの島の料理を楽しみにしてくれていたようです」

「芸術祭が終わった後、坂出市では島のお母さんたちに協力いただいて、「島のレシピ本」をつくりました。瀬戸内国際芸術祭に参加したことがきっかけで、島の人自身が瀬戸内の豊さを再認識することができたと思います」

(岩黒島の子どもたちが披露した獅子舞)

与島5島には、食だけではなく、それぞれの島で受け継がれている祭りや伝統芸能もあるそうです。
これらの伝統芸能が、瀬戸内国際芸術祭2016のオープニングセレモニーで披露されました。

「与島と岩黒島は実は祭りを維持するのがむずかしくなってきているんです。人口も減っているので、お神輿を担ぐ人も少なくなってきて。
岩黒島では、年に一度の秋祭りを盛り上げようと、子どもたちが獅子頭を段ボールでつくり、漁師町らしく大漁旗を油単にした獅子舞が代々受け継がれています。
その子ども獅子舞を、芸術祭のオープニングで島の人たちの協力もあり盛大に披露しました。
櫃石島のももて祭り、瀬居島の塩飽お舟唄、与島・小与島の石切り唄、沙弥島の獅子舞。芸術祭を契機に与島地区5島の伝統文化の継承にもつながればと思います」

「八人九脚」藤本修三

沙弥島を訪れたら、以前はここが海に囲まれた島だったことを思い出してみてください。

そして、沙弥島とともに与島地区5島と呼ばれている櫃石島、岩黒島、与島、瀬居島。陸続きになった2つの島と、瀬戸大橋で結ばれた3つの島には、それぞれの暮らしがあることを思い出してくださいね。